見えるもの、見えないもの。

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水仙がきれいね。

これは通学路?

建物のレンガの大きさが違うのが素敵。

街のなかに、美術品が点在してるみたい。

 

石村貞吉『有職故実』を読んでいました。

古から公家や武家に伝わる礼法、官制、服制などが書いてあります。

簡単に言えば、約束事の本です。

例えば、

「四方拝は、正月元旦に天皇が清涼殿の東庭において俗星の名を唱え、天地四方を拝し、次いで山稜を拝し、年の初めに当たって年中の厄災を攘い、宝祚の無窮を祈る儀式」

「御息所という呼び名は、休息所に伺候する女官のこと」

とか。

日本絵画を見るときに、有職故実を知らないと、何を描いてあるのか理解できないものもありますよ。

西洋絵画でも、同じですね。

キリスト教を知らないと、聖人の外伝である『黄金伝説』のなかのワンシーンを描いていると分からないはずです。

 

絵画は、感性だけで見ることもできますが、約束事を知ると、さらに深く味わえます。

服装で身分が分かったり。

「身分違いの恋を描いているのね」などと、装束だけで描かれた物語が読めるようになります。

詞書が読めない人でも楽しめますね。

 

 

物事を知らないと、ほかの人と同じ世界にいても、見えないことが増えてしまいます。

あなたが見ている世界と、私が見ている世界も、違うものが見えているのでしょうね。

同じ日本人で、親子で、同じ時間を多く過ごしたのに、知識によって見えているものが違うのは、面白いわね。

 

 

壁に貼り付けた宇宙

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歌麿の春画を見ていました。

人体のフォルムが本当に素晴らしいです。

春画は、デッサンが狂っていると言われますが、そんなことをチェックする余裕もないくらい、妖艶で、掴みたくなるような体が絡まっています。

男女の体を描くときは、デッサンよりも、至近距離で見た質感が表現されている方が、良い絵のように感じます。

 

昨日から、アビ・ヴァールブルクの、壁に貼り付けられていた絵画の写真が気になっていました。

様々な時代や様式の女性を描いた絵画の写真を並べて壁に貼り、それを見ながら、新しいゲシュタルトを発見しようとするのです。

絵だけでなく、写真もあります。

歌麿の絵を見ながら、この横に、ベルニーニの《聖テレジアの法悦》の写真を並べたいと思いました。

襞の情感が、よく似ている気がして。

襞にも、正気があるように感じます。

時代も、国も違うのに、私にとっては似ている絵です。

 

似ているようで、まったく違うものも、ありますね。

昆虫の世界では、ゾウムシの形をしているのに、ゾウムシに分類されないものもいるとか。

形象で判断したら、分類を間違える虫がいるなんて。

不思議です。

そういえば、歌麿の絵でも、女性のような若衆が描かれています。

男装をしていた女性もいたそうですよ。

ヴァールブルクのように、私も、世界中のあれもこれも全部を壁に貼り付けて、大きな視点で見てみたいものです。

この世の不思議が、まだ少しは、分かるようになるでしょうか。

料理の絵

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あなたの幸せそうな顔が浮かぶ写真だわね。

最近は研究が忙しかったみたいだから、さぞ美味しかったでしょう。

 

食べ物の写真を見ながら、料理を描いた絵画について、考えていました。

料理そのものが描いてあるものは、古い日本の絵画では、少ないのよ。

思いつくところでは、大正から昭和にかけて活躍した日本画家の前田青邨が、お膳が部屋にある様子を描いていました。

それ以外は、絵巻や浮世絵の、食事風景の中に描かれています。

食材は、日本画でも、枇杷や檸檬、鯛に鰻など、多く描かれていますね。

京都に住んでいると、夏は、鮎を描きたくなります。

魚の青々しい新鮮な様子を描くには、色の発色が良くないといけないので、洗練した筆使いが求められます。

料理以上に、美味しそうには、なかなか描けないわね。

絵画教室でも、「料理を描きたいです」という人は、まだ少ないですよ。

 

出来上がった料理を、メディアで公開するメンタリティーは、海外からのものだと感じます。

「ディスプレイ」を作る精神です。

欧米のお店のショーウィンドウに並んだ、ケーキ、パン、ハム・・・あの豊潤な快楽への誘いを、なかなか無視できませんね。

つい立ち止まってしまいます。

SNSに食事の写真をアップする人も、自分が食べたことを、自慢したい人だけではないでしょう。

例えば、毎月寄せていただく、京都「キメラ」の料理は、お皿を基底材に使った絵画、まるでアート作品です。

シェフは食材を使った画家です。

一刻一刻と味や温度が変わってしまうので、急いでいただきますが、まるで絵を食べているように感じます。

 

いまの時代に、大正、昭和の画家たちが生きていたら、料理の絵は増えたかしら?

そんなことを想像していると、この先も、次々と展開されるメディアの活用によって、新しいモチーフが誕生してくる予感がします。

テキストとアート

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夕焼けの空に、搭のシルエットがロマンチックだわ。

大学の図書館でしょうか。

教会のような図書館がありましたね。

 

経典と曼荼羅、宗教と美術から、テキストとアートの関係について考えていました。

美術があったからこそ、宗教のテキストは、どの時代でも、民衆に広く浸透したように思います。

美しいステンドグラスは、毎週教会に通う人に、非日常の喜びを与えていたでしょう。

キリスト教のテキストに、宝石箱のように教会を飾るようにとあるのですが、光と色ガラスのアートは、まさに宝石のようです。

色ガラスで、こんなに美しい空間を作ってしまうなんて、すごいことだと思いませんか?

キリスト教も、仏経も、教義のテキストに沿って、多くの美術品を残しています。

私には、経典に匹敵するくらい、美術品が描いた教義の世界も、重要に思えます。

 

テキストをアートにするのは、手強いですよ。

老子を絵画にしようとしているのですが、いまの自分が読んだ老子を絵画にしないと、面白味がありません。

そう思えば、ステンドグラスも、当時では最先端の技術だったのでしょう。

新しいものを取り入れていく勇気を、美術史を学ぶことでもらっています。

 

美の力

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とっても美味しそうね。

「これは何ご飯?」と聞いたら「パンご飯」と答えてくれる、あなたのオチャラケ日本語は、相変わらず健在ですね。

海外で生活している時間が、長くなってきたから、あなたがアメリカにいることの方が、自然な感じがします。

 

昨日は空海について書かれた本を読んでいました。

密教美術は、日本では人気があります。

特に曼荼羅は、美しいものが残っていますよ。

『大日経』をもとにした《胎蔵曼荼羅》。

『金剛頂経』をもとにした《金剛界曼荼羅》。

立体曼荼羅では、京都の東寺が有名です。

空海の活躍した、奈良時代の末期から平安時代初期では、白鳳・飛鳥時代までの、渡来人が作った様式に倣わずに、1本木の丸彫りで、ふくよかな太ももに衣の襞が細やかに沿う、色っぽい彫像が残っています。

肉体が、わりと生生しいのよ。

空海はヤンチャだったらしいから、そのエネルギーが仏像にこもっているのかもしれませんね。

 

宗教が美術と結びつくと、双方が大きな発展を遂げていくように思います。

キリスト教のカソリックもそうですが、ステンドグラスの薔薇窓の美しさに、信仰心を強くした信者もいるでしょう。

宗教の教義は哲学的ですが、信者は、哲学だけで救われていったのではないように思います。

美しいということは、大きな力を持っていそうですね。

 

あなたも、小学生の頃から、「美しい数式」に魅入られていましたね。

ふと疑問に思ったのですが、「正しい数式」は「美しい数式」でしょうか?

アートでは、正しさは、美しさとイコールではないのです。

あなたの感性が知りたいわ。

ぜひ、教えてください。

 

流れていく星屑

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あら、オレンジジュースを飲んでいたの?

落ち着きそうな食堂ね。

今日は忙しい日でしたから、あなたから写真を送ってもらって、ホッと一息つけました。

頭がね、忙しかったの。

 

どうしても欲しい資料が手に入らなくて、でも手に入れたいと、拘ってしまいました。

無いなら無いで、なんとかなるのですが、頭の切り替えができなくて。

あなたも、そういうことはあるでしょうね。

どうやって、方向転換をしていますか?

 

絵を描くときも、以前は絵の具が足りなくなると、「買いに行かないと描けない」と、作業を中断していました。

でも、「どうしてもこれ」という拘りだけではなく、「流れ」というものも、ありますね。

無いなら無いで、描いていって、良い絵になったこともありましたっけ。

 

絵画も、1枚の傑作が歴史を変えるということは、ほとんどありません。

流れの中で、新しいものが形になります。

確かに代表作として、美術史に、「この絵画は革新的」と取り上げられるものはあります。

ですが、その前には「出てきてもおかしくない流れ」があったのです。

 

美術史は、流れを分断してしまう危険性もあるのです。

すべてを記述できないので、仕方ないことなのですが、細かに美術史の周縁の出来事を見ていくと、日本画の巨匠・竹内栖鳳の前には、幸野楳嶺だけではなく、まだ宮中で使われていた有職の、雅やかな道具類や、シンガポールやロシアなどの貿易で入ってきた異国の大胆な図像が、日常にあったりしました。

でも、そういうことは、伝記レベルにならないと、詳しく表記されません。

細かな記述を端折ってしまうと、まるで彗星のように、いきなり出てきたスターになるのです。

でもまあ、スターである方が、読み手は彼を好きになりそうですね。

いつの時代も、誰かが天才の役割を担わないと、そのジャンルは目立たなくなってしまいます。

 

こんなことを書いていたら、手に入らない資料に拘って、疲れてしまったことが、馬鹿らしくなってきました。

明日から、違うアプローチをしてみましょう。

 

博物館で祈る人

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この間行った、杉本家の庭の写真です。

あなたの家も、この秋に、庭の苔を植え替えます。

昔は祖父が、杉苔を丁寧に手入れしていたけれど、私はそこまで、できるかしら。

立派な灯籠もあるし、月見石もあるし、綺麗にしないと勿体ないわね。

 

以前読んでいた、脳科学の本で、どうしても分からなかった箇所があったのですが、お風呂の中で、突然理解できました。

「ああ、そういうことか」と。

知識としては、理解していたのだけれど、実態が掴めなかったのです。

 

アート鑑賞でも、そういうことは度々起きます。

 

先日、博物館のショーケース越しに、仏像へ手を合わせて拝んでいる人がいて、ハッとしました。

美術史では、仏像を彫像と呼んだりします。

美術の文脈に入ってしまえば、「仏様」ではなくなるのですよね。

思わず、見てはいけないものを見てしまったように、動揺しました。

 

でもそこから、「実態として、掴んでいるもの」について、考えるようになりました。

理解している、という深さについても。

 

博物館に置かれた仏様からは、信仰の思いは消えるのでしょうかね。

移動するときに、仏様の御霊を抜くようなこと聞いたのですが。

また調べておきますね。